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摩文仁の丘から [日記]

 自転車とは全然関係のない話題です。



 今日は第2次世界大戦末期の沖縄戦が終了したとされる日でした。もう15年ほど前の事になりますが、日本軍の組織的戦闘が最後まで行われていた摩文仁の丘に作られた「平和の礎」を訪れたことが有ります。沖縄戦で亡くなった方々の名前が刻まれた石碑が立ち並んでいるのですが、その中には私の縁戚者の名前も幾つか有ります。

 太平洋戦争が始まった頃、アメリカ空母搭載機の構成は、戦闘機3割、急降下爆撃機3割、攻撃機3割、残りが偵察、捜索救難用機と言ったところでした。日本も似たり寄ったりです。

 これは一見バランスが取れていて結構なことに思えますが、実際には戦闘機の数が全く足りていません。戦闘機は艦隊防空と攻撃部隊のエスコートの両方に使用しなければならないからです。

 戦闘機は航空戦力発揮の主体です。いくら爆撃機が有っても、戦闘機が足りなければ簡単に駆逐され、戦力発揮は不可能と成ってしまいます。アメリカ海軍は日本帝国海軍との幾多もの戦闘でこれを学び、戦闘機戦力の増強を続けました。

 その結果、戦争末期に沖縄に現れた米海軍任務部隊の搭載機の内、70%は戦闘機となっていました。日本が大戦末期において体当たりによる自爆攻撃を行ったことは皆さんご存知かと思いますが、この膨大な戦闘機戦力で米軍は日本の航空攻撃から艦隊を守り抜いたのです。

 では、日本軍の航空攻撃が全く行われなかったと仮定すると、どの様な状況が考えられるでしょうか。

 対空任務から開放されるわけですから、その戦力は当然対地支援に回されることになるでしょう。結果として沖縄本島における日本陸軍の敗滅は大幅に早まったであろうことが推測されます。

  私の義理の祖母は沖縄戦の際、激戦地となった首里城の近くにいて、奇跡的に生き延びました。もし、米海軍がその保有戦闘機を全て対地攻撃に回し、史実の3 倍もの戦力を持って首里を爆撃していたら・・・。義父は生まれず、私の妻もこの世に現れることはなく、私達の二人の息子も当然存在しないということが大い に考えられます。私達家族が今存在する理由の何割かは、日本軍が命を賭して行った米艦隊に対する攻撃のお陰であるかも知れません。人生80年が当たり前に なった現代において、高々60数年前でしか無い出来事が我々の人生と無関係であるはずが無いのです。歴史の中における自分の存在を時々確かめてみるのも大切なことかと思われます。
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